2018.10.7
京都の戦乱、応仁の乱の東陣。
みなさん、こんにちは。
正確には地名として残っているわけではありませんが、西陣織などが有名なこともあり、「西陣」という地域があることはみなさんもよくご存知かと思います。その「西陣」と呼ばれる理由は、京都のかつての戦乱、応仁の乱において西軍の陣地だったから。
ということは、「東陣」もあるはずですよね。しかし、西陣織のような特に発展した有名な産業がないからなのか、歴史の流れの中で、「東陣」という地域として呼ばれることはほぼなくなってしまいました。
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小川上立売の角にある、小川児童公園。この北側に、東軍の大将・細川勝元の邸宅があったそうです。そして「東陣」とは、おおよそ北は上御霊通、南は一条通、西は小川通と堀川通の間、東は烏丸通を越えた上御霊神社、相国寺の辺りまでを指すようです。応仁の乱での東西の境目は、小川通・堀川通付近でした。かつては、この小川通に「小川」という川が流れていて、それを境に東西が対立したそうです。
そう考えると、ほんとうに当時の京都のメインとなる場所のほとんどが、戦場となっていたんですね。
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東軍の拠点は、「花の御所」。
現在はその姿はなく、今出川室町の北の角に石碑が立っています。花の御所とは足利将軍家の邸宅のことですが、周辺にはほかにも有力な守護大名が邸宅を構え、集っていました。
次期将軍となる予定だった足利義視と、それを支援する細川勝元がここを拠点としたわけですね。
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